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財団法人日本ユニセフ協会
 

東日本大震災から3ヵ月
ユニセフ/日本ユニセフ協会支援活動報告

スタッフの声 〜それぞれの現場から〜

【岩手県】
安田 直史 氏
岩手フィールドマネージャー(3月23日〜5月15日)
「一人一人の微力も、合わせれば力になる・・・」
今井田 枝里(4月15日〜現在)
岩手事務所 調達・庶務
「震災を忘れることなく、長い協力をしていくこと・・・」
【宮城県】 【東京】
國井 修 氏
宮城フィールドマネージャー兼宮城県災害保健医療アドバイザー
(3月18日〜5月22日)
「復興には、街づくりには夢作り、人作り、絆作りの3つが重要・・」
鈴木 有紀子
支援物資調達(3月14〜現在)
「そこに届く何かがしたい、それが人の心だと知りました・・・」

氏名:安田 直史
所属・役職:ユニセフ・ヴェトナム事務所 HIV/エイズ専門家
派遣先:岩手県 (3月23日〜5月15日)
担当職務:日本ユニセフ協会緊急支援本部岩手フィールドマネージャーとして岩手県内の支援活動を統括。

3月11日にNHK、CNN、 BBCが途切れずに津波の映像を伝えるのを見てから25日に被災地に足を踏み入れるまでの2週間は、ハノイで悶々とした日々を過ごしていました。「自分が人道支援の道を選んでおりながら自国の惨状に何もしないなどということがあっていいのか?」。でもユニセフは動きました。

「うわーっ!おもちゃいっぱい!」避難所や保育所に行って「箱の中の幼稚園」や「リクレーションキット」「ちっちゃな図書館」の箱を開けるたびに子どもたちが叫びます。この仕事をして一番良かったと思う瞬間でした。この箱を開けると同時に「遊んでいいのだろうか?」と封印してきた小さな心を開けたのだと思います。

「無理なお願いですが、いただけるなら運動場がほしいです。」陸前高田市教育委員会で、学校で、子どもたちにすぐに必要なものを聞いたとき、言われた言葉です。広場や公園は瓦礫の山となり、体育館は避難所に、そして校庭は駐車場で仮設住宅が建とうとしています。子どもたちを広くて安全な場所で思い切り遊ばせてあげたい気持ちが「ユニセフこどもバス遠足」の企画につながりました。

「お父さんは死んじゃった・・・」避難所を回るたびに、親を亡くした子どもに会いました。今のところ両親ともに亡くした子は141人と発表されていますが、おそらくその何倍もの子が片親を亡くしていることでしょう。その子たちのことも忘れないようにしなければなりません。

「ユニセフさん!」 何度も声をかけられました。避難所でも教育委員会でも診療所でもユニセフを支援してくださっている方々に出会いました。また、どこへ行っても「ユニセフ協会の者です」というと、忙しい中、必ず会っていただけました。「ユニセフ」の名前の重さを実感すると同時に、「名前に恥じない仕事をしなければ大変なことになる」という責任感もずっしりと感じました。一人一人の微力も合わせればいくらかの力になると信じ、一刻も早い復興と子どもたちの元気な成長を願いたいと思います。

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氏名:今井田 枝里
所属・役職:カード事業部・主任
派遣先:岩手県(4月15日〜現在)
担当職務:調達、庶務

東日本大震災を忘れないこと!今 私が一人でも多くの方に伝えたいことです。

震災からほぼ3ヵ月、がれきの片づけは進んでいるように思います。しかし、復興にはこれから何年、何十年とかかるかわからない状況だということ。そして私達にできることは、この状況、震災を忘れることなく、長い協力をしていくこと、これのみです。

盛岡に来て初めての仕事は、釜石市保健課から要請を受けて、津波で車を流されてしまったため、保健活動ができない保健師の方たちに、軽自動車のレンタカ—を届ける仕事でした。釜石駅のガードをくぐった瞬間、そこは映画の1シーンかと思うほどの光景でした。電気が通じていないので、信号機はなく、鉄骨のみの商店がたちならび、商店の中はがれきでふさがり、海岸沿いはすべて流され、がれきのみ。間違えて小道をはいってしまうとがれきの山で、タイヤがパンクするのではないかという恐怖にかられました。いったいこれからここの片づけにどのくらいの時間がかかるのだろうと被害の大きさに驚きました。盛岡への帰りは、遠野の峠で雪が降り、被災地が北であることを再認識させられました。

5月のゴールデンウィークに被災沿岸10カ所のお子さんたちに、おもいっきり広いところで遊んでもらおうと、「ユニセフ無料子どもバス」を企画し、約900人の参加がありました。このときは、目的地の公園などで、子どもさんたちを見守るためスタッフとして参加しましたが、到着したときには硬かったみんなの表情が、帰路につくときには、全員本当に楽しかった!という笑顔あふれる表情にかわっていることに驚き、本当に子どもにとって走りまわれるのがどんなに幸せなことなのかと実感しました。

このように現地でユニセフ支援を実行できるのは、ドナーの皆様のおかげであり、またその支援実施については、多くの企業、また本部、協会の皆様のご協力、ご理解のたまものと心より感謝しております。

現地では、朝早く盛岡を出発し、夜7時ころ戻り、ミーティングをして10時すぎにようやく休むという生活が続いていますが、チームみんなが元気にいられるのはチームワークのよさかなと感じています。

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氏名:國井 修
所属・役職:ユニセフ・ソマリア事務所 保健・栄養・水衛生事業部長
派遣先:宮城県 (3月18日〜5月22日)
担当職務:日本ユニセフ協会緊急支援本部宮城フィールドマネージャーとして宮城県内の支援活動を統括。また宮城県知事からの委嘱により災害保健医療アドバイザーとして、避難所や救護所などでの保健衛生・栄養の改善、被災した市町における母子保健事業再開に関する助言・指導など保健福祉行政をサポート

初めて被災地の現場に足を踏み入れた時、声を失い、涙が溢れ、全身から力が抜け落ちました。これまでスマトラ島沖地震・津波、ミャンマーサイクロン、バングラデシュ大洪水などの大水害の惨状も見てきましたが、まさかそれを上回る凄惨な光景をわが母国日本で目の当たりにするとは・・・。

約2ヵ月間の支援活動で、時には自分で車を運転しながら、宮城県の被災地を北は気仙沼市から南は山元町まで、延べ2000km以上走りました。このような緊急事態の支援活動に必要なのは「正確な情報」。被災地のどんな場所でどんな時にどのような支援を必要としているのか、自らの目で確かめ、生の声を聞いてくる必要があります。

私は村井知事からの委嘱で宮城県災害保健医療アドバイザーにもなりましたが、これは被災地の全体像を把握し、ニーズを分析し、被災地ごとに必要な助言および物的支援をする上でとても役立ちました。支援のほとんどは避難所に向けられていましたが、実はその災害対策の要となる市・町、さらにその支所、保健所なども壊滅的な被害を受け、この機能復旧への支援はなおざりにされていたのが現状です。

たとえば、市や町の保健師や栄養士が避難所の母子の健康状態、栄養状態を把握したくても、車が流されて現場にいけない、通信手段がなく県に報告ができない、乳幼児健診や予防接種を再開したくとも、乳幼児の体重計・身長計、ワクチン保冷庫などが流されてしまっている、などの現実がありました。さらに被災した市町の職員、保健師・栄養士も被災者でありながら、震災当日から不眠不休の支援活動に従事し、彼らの健康管理、心のケアは誰からもなされていませんでした。

これらに対し、市町、支所、保健所、児童相談所などの悩みを聞き、必要な物資、例えば車、コンピューター、通信機器、ワクチン保冷庫などを調達・寄贈し、母子保健事業などの再開に必要なアドバイスをし、現場の声を県や国につないでく、というのが私の役目でした。特に、石巻市は被災地の中で最大の人口を抱え、支援活動も困難であったことから、仙台市から毎日のように通い、市役所や避難所などを廻りながら、県と市、官と民の支援活動をつなげようと努めました。また、石巻市の災害復興計画には有識者として加えて頂き、次のような提言をしました。

「石巻市の復興、街づくりには夢作り、人作り、絆作りの3つが重要」

「夢作り」:災いを転じて福となすため、Build Back Betterすなわち災害前よりもよりよい街づくり、復旧でなく復興を目指すべきです。そのためには、みんなで夢を描き、それを具体化し、その実現のための戦略を練ること。子どもが楽しく学び遊べる街。若い人が生き生きと仕事をしたくなる街。女性が子どもを産み、育てたくなるような街。高齢者が安心して楽に過ごせる街。そんな街をみんなで夢見て、それを具体的な戦略に落としていく、復興計画に組み入れていくことが重要です。特に次世代を担う子ども・若者の声を反映していくこと。少子高齢化の東北地方は日本の将来の縮図でもある。被災地の新たな街づくりは、日本の未来のモデルにもなります。

「人作り」:街づくりをするのも人。その街で過ごしていくのも人。特に地元の若い世代を育てていくことが重要。世界中から支援の要請が来ている今、これを地元で被災した若い世代を育てるいい機会にもできます。国外への留学、国内での職業訓練など、様々な機会を与えることができます。また、この未曾有の大災害、さらにその支援、復旧・復興活動は、被災地以外の人作りにも貢献しています。災害に強い街づくり、困難に強い人作り、助け合い、分かち合いの気持ちをもつ人間作り。そのような機会として、復興活動に日本全体が取り組むことが必要です。

「絆作り」:今回の大震災は被災地のみならず、日本全体に家族の絆、友人との絆、地域の絆の大切さを知らしめました。街づくりにはこの絆づくりが重要であり、それは避難所、さらに仮設住宅の中での助け合い、つながり合いからはじまります。これは自然発生するものもあれば、行政や民間、住民が「仕掛け」ないと促進されないこともあります。孤独死が多かった阪神大震災の教訓を活かして、仮設住宅や被災地域には特にコミュニティーの再建、助け合い、つながり合いの促進をすべき。現在検討中のサポートセンターをいかに機能させるかが鍵。特に、高齢者とお母さんと子どもが世代を越えて交わり、住民が主体、または参加しながら、支援しあえるようなコミュニティーをいかに作るか。ハードだけでなく、ソフト面を住民参加で議論する必要があります。

私は日本でのこのような支援活動を終えて、現在、ソマリア支援のためアフリカに戻っています。ソマリアにも、状況は異なりますが、紛争で傷つき、栄養不良で倒れ、感染症に苦しむ人々など、助けを必要としている人がたくさんいます。

一刻も早い日本の被災地の復興を祈りながら、東日本大震災で失なわれ行方不明になった人々と同じ数、2万人以上の子どもたちの命が世界で毎日失われている現実も忘れないで欲しいと思っています。

最後に、ご支援、ご協力頂いた皆様へ、この場を借りて心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

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氏名:鈴木 有紀子
所属・役職:個人・企業事業部(企業のご支援担当)
派遣先:東京での後方支援業務
担当職務:支援物資調達等

「ユニセフ ちっちゃな図書館」プロジェクトを告知した3月最後の週、続々と到着する本の詰まった荷物の山と、ユニセフハウスを訪れる多数の親子連れに、すごいことが起こっていると身震いしました。こんなにも、みなさん、何かがしたかったんだ、と。

震災の翌週、私は水や紙おむつを探して、支援企業さんに電話をかけ続けていました。被災地以外でも需給のパニックが起こっていて、紙おむつなどは買いたくても買えず・・。ガソリンも蒸発したかのようになくなっていて、ご寄贈いただけた水を現地まで運んでくれるトラックを探し回りました。その後の週になると、子どもの下着や衣服、長靴、靴といったニーズが緊急にあがってきて、次の週は学校再開に向けた文房具やノート、OA機器・・・。ニーズは刻々と変化しました。

休日もなく、子どもの保育園のお迎えも実家の母頼みに。余震が続いた東京でも子どもたちは不安定で、自分の子どもも例外ではなく、保育園で突然泣き出したと言われた日も。自分の子どもに不安な思いをさせる後ろめたさを感じながら、それでも続けたのは、被災地に対して何かできることがあるということが、私自身の救いになっていたからだと思います。支援企業さんのご協力で現地に届いたぬいぐるみに笑顔を見せた子どもの写真がニュースで大きく伝えられたとき、その写真を見て涙がこぼれました。

“よっしゃ!”と本の仕分けやセッティングに立ち上がってくださったボランティアの方々、被災地の2万人の子どもたち一人ひとりに手渡すノートと文具のセットを、信じられないスピードで在庫をかき集め、セッティング作業に奔走して新学期に間に合わせた支援企業とボランティアの方々。ものすごく大変だったのに、みなさん口をそろえて「何かできてうれしい」と。そこに届く何かがしたい、それが人の心だと思い知りました。

「何かしたい」という思いは、残念ながら持続することが難しいものでもあります。長期戦が確実になった現在、次の目標は、その思いをいかに持続する形に転化してゆくかだと思っています。