現地日本人スタッフリポート03 食料の配給を待つ人々に1ドルの「授業料」それでも必要な教育

青木佐代子(あおき さよこ)
ユニセフ・ゴマ事務所の日本人職員2008年3月14日 ウガンダ・グル 私の仕事

私の仕事は、子ども達に勉強する機会を提供することです。紛争下、津波後、地震の後、貧困下…つまりいつでも。もともとは緊急支援ではなく開発専門なのですが、ユニセフの緊急支援下の教育支援を始めて4年目に入ります。理由はどうあれ、すべての状況において学校に行けない子ども達のための「寺子屋」などを通して、子供の教育が途切れないようにするのが私の仕事です。

よく、人道支援では食料や水、寝る場所の確保が先で、教育なんて場合じゃない、という意見を耳にします。しかし、コンゴ民主共和国東部のように紛争が30年も続くところでは、平和の到来を待っている間に、子ども達は学校に行けず、読み書きや計算ができないまま大人になるのです。読み書き計算ができないと、就ける仕事がとても限られてきます。日本で読み書き計算ができなかったら、やっぱり将来の選択の余地がなくなりますよね。 また、お母さんの教育レベルが低いほど、子どもの数が多くなり、それに比例して貧しくなっていく、というのが通説です。そして、子ども達が今日教育を受けていなかったら、何十年にも及ぶ紛争がようやく終わったとき、教育を受けた世代がごっそり抜け落ちているでしょう。その時、一体誰が国を立て直していくのでしょうか。

コンゴ民主共和国の今

現在、コンゴ民主共和国東部の北キブ州の人口500万人の2割、100万人が紛争の為に国内避難民となっています。紛争や武力衝突によって、村が襲われ、略奪、虐殺、強姦されると、その近辺の村の人々は、命のために故郷を捨てて逃げ出します。両手に持てるだけを持ち、全てを捨てて安全だと思われるところまで何日でも何週間でも歩いて逃げてくるのです。 コンゴ民主共和国東部では去年一年間で50万人の人々がこうして国内避難民になったと推測されています。彼らは、避難民キャンプを作って住むか、または、辿り着いた村々に受け入れてもらい「居候」になります。 こうして仮の住まいでの生活が始まります。ミノムシのようなバナナの葉で作った登山用キャンプテントほどの「家」で、いつ来るとも知れない食料や援助物資を待つ毎日です。そしてやがてこの非日常が日常になっていきます。日常生活が始まると、人々はどんな状況下にいても、必ず思うんですね。「子どもを学校にやらなきゃ」と。

コンゴ民主共和国での教育

コンゴ民主共和国では小学校6年間の義務教育は無料なのですが、政府財政が機能しておらず、学校の先生の給料が支払われていません。家族はそのしわ寄せを受け、毎月一人1ドルの「授業料」を払わねばなりません。

国内避難民になり、食糧の配給を待つ人々に月一ドルの「授業料」を払えるか。町では現金が流通していますが、地方に行くと(そして、ここの99%は「地方」なのですが)、現金は油や塩などの町から来る生活必需品を買うときに使われ、人々は自給自足の生活を送っています。非常に貧しいけれど、食べ物がなくて飢えて死んでしまうわけではない。でも、一ドルの現金はとても大きな負担です。

では、事情を考慮して、学校側は避難民の子どもたちを無料で受け入れるべきでしょうか。でも、もし、多くの避難民のために生徒数が倍になっていたら?クラスの数を倍増しなければいけないかもしれない。先生は午前と午後、二回授業をしなければならないかもしれない。その「残業手当」はどこから来るのでしょう。 では、もし、その村が貧しくて、家族が本当に苦労して毎月一ドルの授業料を払っていたとしたら?あなたなら、やりきれない、悔しい思いをするのではないでしょうか。私は避難民ではないけれどとても貧しくて、こんなに苦労しているのに、と。そういった感情が憎しみに変わらないとは言えますか?特に状況が半年から数年も続いたとしたら?彼らを追い出したくなるのではありませんか?

また、避難民が、故郷に帰ったら授業料を払わなければいけないけれど、ここにいたら無料だからと、危険が去ったので帰れるのに不必要に「居座って」しまうケースも出てくるでしょう。そうなったら、「あなたはもう避難民ではないから授業料を払ってください」と言えるでしょうか。彼らは故郷では小さな雑貨屋をしていたけれど全てをなくしたので、まだ収入がなかったのだとしたら?または、畑は民兵に荒らされて使い物にならなくなっていたのだとしたら?

それでは、ユニセフが先生の給料の肩代わりをするべきでしょうか。そうしたら、政府は公務員の給料を払うことを永遠に放棄するでしょう。だって、いつかは誰かが払ってくれるのですから、放っておけばいいのです。今日の問題は解決するかも知れませんが、明日の問題は解決せず、残るのは責任を放棄し、強い依存心だけを持った、何もできない、何もしない国家でしょう。そうなったら、10年後、20年後、100年後の子ども達の教育は、誰がするのでしょうか。

ユニセフの仕事

ユニセフや世界銀行のリードで、コンゴ民主共和国の首都キンシャサで「授業料廃絶」のプロジェクトが始まりました。喜ばしいことです。でも、それがコンゴ民主共和国東部の子ども達に「もう月1ドルを払わなくていいよ」という形で届くまでは何年という時間がかかるでしょう。

月一ドルの「授業料」と支払われない先生の給料。どちらも「ない袖はふれぬ」。紛争の根底にあるものは、政治、民族対立、そして歴史。絶え間なく産み出される数十万人もの国内避難民たち。そして危険が去った後、全てが破壊された故郷に戻る帰還民たち。略奪、強姦、殺人、拉致、強制労働、搾取…多くの人権侵害が行われています。先月は地域を大きな地震が襲い、何万人もが家を失いました。ゴマを見守るニラゴンゴ山もまたいつ噴火するかわからない。それら全てが大きなうねりのようにコンゴ民主共和国東部を飲み込んで動かしているのです。

そんな状況でも子ども達は毎日成長していくのです。そして、毎日教育を受ける権利と必要があるのです。子どもは「今日」で、「明日」ではないのです。

ユニセフはそんなとても難しい状況の中で、子供の教育を支持し続けます。状況は刻一刻と変化し、状況は良くなるどころか、後退することも多々あります。それでも、ユニセフの活動は決して止むことはありません。私たちの活動を信じてくださる皆さんと共に、明日を信じる子ども達の希望のために。

さて、コンゴ民主共和国のような遠い国の子どもが学校に行けない現実は、普通の日本人の日常生活とどのようにつながっているのでしょうか。

例えば、日本のお菓子を一袋買うとします。それはまず個別にビニール袋に包装され、それがまとめて大きなビニール袋に入ってきます。手が汚れないように、それを載せるお皿を洗う手間が省けるという便利な生活のために、ビニール袋に入っているのだと思いますが、そのビニールの原料は石油です。

その石油は多くの国にとって貴重な外貨獲得手段です。石油はコンゴ民主共和国国内でも売られますが、需要が多く高値で売れる海外に輸出されるため、国内では非常に高い。高い石油。ほとんどの貧しいコンゴ民主共和国人には必要最小限以上は買えません。電気がほとんどないので、私たちは発電機を使いますが、それを動かすのは石油です。石油を買えなければ発電機を動かせない。電気がなければ水道水がない。井戸もほとんどないので(井戸は機械を使って掘らなければいけない)、人々はプラスチックの灯油缶で水を川や湖から歩いて運びます。子どもから大人まで総出で。

川や湖が歩いて片道2時間だったら、朝水を汲んで帰ってくるともう学校に遅れてしまいます。もしかして学校に行っている時間はないかもしれない。水汲みに行くにはジャングルを通らなければならないかもしれない。女の子や女性が水汲みや薪拾いの人気の少ない道中で、真っ昼間に民兵などにレイプされるケースはとても多い。それで妊娠・出産し、学校に行けなくなるかもしれない。または、川があまりに遠いので、家族は他の人が川や湖から運んできた水を買っているかもしれない。

水がなければ毎日の食卓に必要な農作物を育てることもできません。こうして、貴重なお金は貴重な水のために使われ、子どもが学校に行くための月一ドルは手元に残らないのです。

もしも、私たちが個別包装されているお菓子を買わなくなれば、製造者は何故製品が売れなくなったのかを考えます。そして、それが個別ビニール包装のせいだと分かれば、それを使うのをやめるでしょう。そうすれば、日本の石油の需要は、少しですが、減ります。石油の需要が供給より少なくなれば、石油の値段は下がります。
コンゴ民主共和国や他の国で海外輸出用の石油の値段が下がれば、国内で販売するしかありません。国内でも、供給が今より多くなれば、値段は今よりは下がります。そうしたら、水道水がもっと普及するかもしれない。電気と水道があるところには水が出るようになる。そうすれば、子ども達は水汲みに行かなくてすむし、いままで水を買っていたお金を学校の授業料に回せるかもしれません。

何気なく食べているお菓子ひとつをとっても、その便利さは誰かの犠牲の上に成り立っているのです。便利な生活は快適です。私もできるだけ便利な生活をしています。でも、その影にいる人々のことを、知らなければならないと思います。そして、日本人は、情報を集めることができる状況にいるし、それを理解するだけの教育を受けているのです。

日本のみなさんに訴えたいことは、もっと世界情勢を理解する努力をしてほしいということ。コンゴ民主共和国のような遠い国の子どもが紛争と貧困のために学校に行きたくても行けないでいる現実が自分の日常生活とどのようにつながっているのかを理解してほしい、ということです。
そして、解決を人かませにするのではなく、自分で考え、できる範囲のことをしてほしいと思います。政治が悪い、マスコミが悪い、と人のせいにするのは簡単ですが、そのような政治やマスコミの存在と存続を支持しているのは他でもない国民一人一人です。私は、大学院にいる10年前ほどに、教育は、三つの能力を養うためにあるのだと習いました。一に、情報分析力、二番目に、批判的思考力、そして三番目は意思決定能力、です。
日本のように経済的に恵まれ、9年間の無料で、しかも世界的に見て質の高い義務教育を終え、情報に簡単にアクセスできる状況下の日本人には、世界市民としての社会的責任をもっと担うことができると思うのです。