EYE SEE TOHOKU〜子どもたちの目が見る被災地の今と明日〜

写真ワークショップレポート

EYE SEE TOHOKU in 福島県相馬市

2日目 12月3日(土)

9:00

いよいよ、撮影スタート:

朝から冷たい雨が降り続いたこの日。集合時間前にみな集まってきました。
子どもたちが希望した撮影場所は屋外が多かったのですが、天候を考え、屋内を中心に撮影を行うことになりました。

「雨が降っても、放射能のことは今はあんまり気にしてないです。今日の一番の楽しみははらがま朝市。この1週間、仮設の人を撮ろうと思って近くまで行ったけれど話しかけることができなくて、遠くから撮りました」と、陽さん。

はらがま朝市

最初に全員で「はらがま朝市」へ向かいました。
この市場は、被災した人たちが中心となって相馬スポーツアリーナで開催した復興市場で、毎週末に開催されていて、ニュース等にも取り上げられているため有名だそうですが、子どもたちは誰も、一度も足を運んだことがなかったとのこと。

「朝市は5月3日から始まりました。津波で家が流されちゃって。でも、いつまでも泣いていては亡くなった人に申し訳ないと思って。やっぱり寂しさもあるけれど笑っていかなきゃね」と、おでんを売るおばさん。

朝市の方が、集まっているみなさんにこのEYE SEE プロジェクトと写真を撮っている子どもたちを紹介してくださいました。

野菜などを売っているおじさん。「一人で流されちゃったら寂しいけれど、みんなで流されたからしょうがないよ」

乃愛さん、愛叶さんはNHKの人の取材を受けました。
「津波とかで流された人もいるけれど、みんながんばっているということを伝えたい」と話したという愛叶さん。
(このようすは、お昼のローカルニュースで放送されました)

たこ焼きを販売しているのは、この朝市を主催している団体の代表を務める高橋さんご夫婦。震災前は漁業関係のお仕事をされていたそうですが、津波で会社も家も流されてしまい、やることも何もなくなって、はじめたんだよ。お金がなくてこまってるからさ、もうけたいと思ってやってるんだよなんて、笑って冗談を交えながら話してくださいました。

「友だちのおばあちゃんで、昔から知ってるの」と積極的に取材する乃愛さん。小さな子どもを撮りたいと、取材を試みるが恥ずかしがられて隠れられてしまう。お母さんたちは朝市に来たのは今日が初めてとのこと。

大勢の人がいて、お天気も悪く薄暗かったので撮影には苦労しましたが、できあがった写真は生き生きとした素晴らしい写真でした。

チームA スポーツアリーナ、はまなす館へ

この後、チームごとに分かれて撮影を続けました。
チームAは、スポーツアリーナ相馬に向かいました。中でバドミントンの練習をしている人たちを見つけて、突撃取材。シャトルズジュニアの監督さんにお話を伺いました。

震災後は練習する場もなく困ったようですが、ようやく皆で集まって練習をすることができました。幼稚園生から大人まで、幅広い人たちがバドミントンを楽しんでいるとのこと。旦那さんと二人で、バドミントンの指導をしているそうです。

続いて向かったのは、はまなす館(相馬市総合福祉センター)。

慈善団体の方が義援金を支給する日とあって、多くの人が訪れていました。取材に応えてくれたのは、台湾の慈善団体の方。
罹災証明書を持っている人たちの中から、被災状況の深刻な人たちを対象に呼び掛けているとのことで、宮古市から沿岸部の被災地をいくつかまわってこの活動を行っています。

子どもたちは「はまなす館」の職員、渡部さんを取材しました。

「被災後ここは避難所になっていた。この施設には大きなお風呂があるのでよかった」渡部さんも農家だけれど、風評被害で野菜も売れず、大変だったそうです。このはまなす館は6月20日から通常営業しているとのこと。
この日開催される「原発学習会」のことを尋ねると、地域の商店街の方らに、原発の賠償金をどのように確定申告するかなどを説明しているのだと教えてくださいました。

続いて、はまます館の2回にある相馬市生活復興ボランティアセンターを訪れ、センター長の今野さんを取材しました。
ボランティアセンターは3月21日に開設され、当初は支援活動、瓦礫撤去や写真の洗浄、避難所から仮設への引っ越しの手伝いなどをやっていました。

原発の影響があるので、ボランティアさんには雨の日は気を使いました。日本全国、海外から合計1万1千人のボランティアさんがきてくれて、ボランティアの人たちの触れ合いがよかったと思います」。

チームB 市役所へ

 ©UNICEF/Japan2011/Riri Yoshida

一方、チームBが向かったのは市役所。被災後に急ごしらえで設置された「そうまさいがいエフエム」の放送局があると聞いたからです。
休日にも関わらず、市役所入り口付近では、食品の放射線量の測定会(予約制、無料)が行われていて、ちょうど農家の青田さんご夫妻が干し柿を持ち込んでおられました。
事情を説明し、急遽、そのようすを撮影をさせていただくことができました。
同行していたジャコモさんも、とても大切な場面だから、と、子どもたちに撮影する場所や、薄暗い中での撮影なのでカメラをひじでしっかり固定するように、などアドバイスを続けます。

測定を終えた青田さんご夫妻にお話を聞いてみました。完全に安心できるような結果ではなかったようですが、それでも何も知らずに不安でいるよりも、事実を知ることができてよかったと子どもたしに話してくださいました。

 ©UNICEF/Japan2011/Giacomo Pirozzi

放射線量測定器も撮影させてもらった子どもたちは、次の予約の方がいらっしゃるまで、ご担当の市役所の方からもお話をうかがいました。放射線のご担当というわけではなかったのに、急遽こうした仕事もしなければならなくなった大変なようすを話してくださいました。測定は数値だけを測って伝えるだけで、それが安全かどうかなどの判断は一切しないそうです。
反対に「あなたたちは、食べ物の放射能とか心配ではないの?」と聞かれた子どもたち。とまどいながらも、「お母さんが県外のものを買ってきてくれているから、あまりこわくはないです」などと答えていました。

 ©UNICEF/Japan2011/Riri Yoshida

当日、当番で出勤していた方がインタビューに応じてくれました。

その後、訪れたのは「そうまさいがいエフエム」の放送局。
ここは、もともと防災無線局になっていたそうですが、津波で沿岸の多くの無線基地がやられてしまい機能不全に陥ったそうです。
市民の方に情報をお伝えするにも、知らせる方法が紙だけしかなく、なかなか情報をお伝えできなかったため、エフエム放送を開始することになったのだそうです。

 ©UNICEF/Japan2011/Juri Fujiwara

3月30日に放送が始まったときの原稿

3月30日に放送が開始されてからいまも限られた時間帯で放送が続いているそうです。使われた原稿の束が山のように積まれていました。開始当初はガソリンスタンドやお店の情報、道路や交通情報などの生活情報が主で、あまり明るいトーンでの放送はできなかったそうです。市役所の方が交代でパーソナリティをつとめたほか、ボランティアや有名人のゲストなども、協力して運営されていたという話を子どもたちは興味深そうに聞いていました。

12:00

ランチタイム

センターにもどって、それぞれの撮影のようすを報告しあう子どもたち。楽しそうです。

13:00

仮設住宅へ

午後は両チームとも、大野台の仮設住宅の一角に設けられた公共浴場もある集会所を訪れました。普段は一日90人くらいのお客さんがいるとのことですが、雨ということもあり、この日はいつもより少なめとのことでした。お風呂に入りに来ていたお年よりたちが子どもたちの取材に答えてくれました。

「今ここにいるのはみんな家が流された人たちだから。みんな漁師だよ。かっこいい漁師だべ」と菱川さんの奥さん。今も眠れないことがあるそうです。大家族だけれど息子たちは仕事にでているから旦那さんと過ごしているそうです。「孫が大学に行くまでがんばっぺ、そしたら旅行にでもいってのんびり過ごそう、と思っていたら、津波がきてしまった・・。がんばっていこうと思っている。これまでもはここまで大きい津波はなかった。あまくみてたな・・・」
「かじべの頃はな。ああ、かじべというのは『子ども』という意味なんだ」
「年寄りはほとんどタンス預金していたから、みんな流されちゃった。仮設にもお風呂はあるけれど狭い。ここは広いし、みんなに会えるからいいね」

「震災の前は漁師だったんですか?」
「16歳ぐらいから」
「どんな瓦礫を集めてるんですか?」
「木かな。あとは網とか」
菱川さんにお話をうかがう柚月さん。

被災の日のようすから今思うことまで、子どもたちにたくさんの話を聞かせてくれた庄治さん。
「家にいて津波が来た。塀の上で助けを求めた。それがテレビにうつったけれど助けてもらえるまで2日ほどかかったよ。出かけていて、家に帰ると、おっかあが『水の音がする』といっていた。そう思っているうちに階段に水が流れて来て、どんどん流されて行った・・・」
「おめえらが一番気いつけなきゃいかんのが放射能。喰うものもないもんな。2ヶ月になる孫がいるのよ。もう心配で3回も(放射能を)測ってる」
「漁師はいつになったら魚捕れるんだって、いいたいね」

仮設住宅を取材

チームAが、「すみませーん」と勇気をだして取材の依頼に玄関を尋ねたのは、大野仮設第4にある島健博さんのお住まいです。

快く取材を受けてくれた島さん。
もとはプラスチックの金型を作る仕事をしていたといいます。楽しいことは、隣近所で仕事をさせてもらっていること。

「取材といってもこんなひげ面だからよ・・・。いっぱいでまいったな。せまくてごめんなさい」と島さん。

愛叶さんが「原発についてどう思いますか」と訪ねると島さんは熱く、こう答えました。「ない方がいいんじゃないかな。一度こういう事故がおこると、収拾がつかないでしょ。人間の力で収めきれなかったから。皆さんは避難しなかった?あんた方の時代だからな。今度は。みなさんもあちこちの場所でバラバラになったでしょ?みんなの気持ちはどうなのかな。我々はおじいさんだからいいんだけど、(放射能汚染の状況は)どこまで戻るのか、除染とかいっても、なくなりはしないんだから。よそに持っていけないでしょ。本当にあと何十年何百年かわからないけれど。チェルノブイリもまだものすごく放射線は高いでしょ。放射能は目に見えない。これからは皆さんの時代なのだから、皆さんががんばってくださいね」
島さんの言葉を真剣な面持ちで受け止める子どもたち。
「怖いんだよ、本当に、放射能は。政治家になってよ」という島さんの言葉に、「あ、それもいいなー!」と愛叶さんが答える場面もありました。

 ©UNICEF/Japan2011/Akira Sato

荒さんとお孫さんたち

チームBは、さっきの集合所で「うちでいいならどうぞ」と誘ってくださった荒さんのお宅を訪問しました。
「いっぱい支援をもらったからね。こんなことでもお返しできるなら何でもやるわよ」とおっしゃって、快く仮設住宅の中のようすを見せてくださった荒さん。ちょうど住宅の断熱工事中だったため、車いすの旦那さんはいったん施設に行っていました。狭い仮設住宅内での介護は大変なごようすでした。
ちょうど訪問中に2人のお孫さんが遊びに来て、うれしそうな荒さん。これまでお孫さんたちとも一緒に暮らしていたそうですが、仮設では離れ離れに。週末の短い時間しか一緒にいられないそうです。

大野小学校

ワークショップ会場に戻る帰り道、愛叶さんの通う大野小学校に立ち寄りました。除染で掘り返された土が盛られている校庭。校舎も東側半分は地震の影響で地盤沈下となり、現在は使用禁止になっているそうです。いずれ校庭に仮設をたてて、立て直しの工事が始まるとのこと。
「滑り台は放射線量が高くて、立ち入り禁止って言われたの。使ってるけど」とまなかさんは教えてくれました。
撮影していると、PTA会長さんが見回りに来ました。仮設ができてから不審者が増えたのだそうです。

* * *

センターにもどり、2日目は終了となりました。
みなが撮りたかった海辺の写真。翌朝天気が回復しそうなので、30分早く集合して撮影に行くことにしました。
雨の一日。でもたくさんの人に出会い、本当に多くの話を聞いた1日でした。子どもたちはどう受け止めたのでしょう。

はじめに

1日目

2日目

3日目

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