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財団法人日本ユニセフ協会

ライブラリー 報告会レポート

ジャコモ・ピロッツィ氏特別講演会
東日本大震災緊急・復興支援活動報告会

≪第二部≫ 東日本大震災・緊急支援活動報告会
【講演】 大槌保育園 園長 八木澤 弓美子氏

大槌には、地震発生から津波到達まで30分位と言われていますが、堤防を決壊してからたった2分くらいで町が壊滅的な状態になりました。これからお話するのは、震災直後からユニセフの支援を受けるまで、現在子どもたちと向き合っていることについて、ご報告させていただきます。

私の保育園がある岩手県大槌町は太平洋に面した、リアス式海岸の景観が美しく、ひょっこりひょうたん島のモデルとなった鳳来島があり、海の幸が豊富で、これからの季節は鮭などの美味しい魚が採れる街でした。2011年3月11日に起こった地震と津波により、街の52パーセントが壊滅的な被害を受け、震災前1万5千77人だった人口は、9月末現在で死者802名、行方不明者526名、震災後1万2千834名となってしまいました。岩手県の死者・行方不明者数全体のおよそ21.5%を占めています。家屋の倒壊も、6000世帯のうちの3717戸が全半壊しています。

大槌保育園は、平成21年4月に町立保育所と統合し、子育て支援センターを併設し、定員も60名から90名へ変更し、本園舎に新築移転しました。震災当時は113名の園児をお預かりしていました。

2011年3月11日、午後2時46分、お昼寝後のパジャマ姿の子どもたち。これからおやつを食べるぞという時間。小刻みにカタカタと揺れ始め、その揺れは次第に大きくなっていきました。子どもたちの泣き声が聞こえてきたため、園内放送で「地震です、先生のそばに集まってください。大丈夫、こわくないからね」と放送したところ、揺れはおさまる様子はなく、ますます強く激しく、長い時間揺れています。各部屋をまわってみると、子どもたちはすでに先生から防災頭巾を渡され、3・4・5歳児は頭の上にかぶっていました。園庭を見ると、大きく地割れしていて、これはただ事じゃないと思いました。長い揺れの中、園内は停電となり、非常灯に変わりました。大津波警報が発令されました、一度だけ言った防災無線。園内放送も停電のため機能しません。再度各クラスをまわってみると、先生が子どもたちにすでにジャンバーを着せてくれていたので、すぐに避難することができると思いました。避難訓練では、一度園庭に整列し、子どもたちの人数を確認してから、また避難場所で、という訓練をしていましたが、そのような時間はないと判断し、準備できたクラスからすぐに避難するように指示しました。

町指定の避難場所は、雨風をしのぐ建物がなく、独自に消防署や地域の方々から聞いて、津波避難場所に決めていた、高台にあるバイパスのローソンに駆け上がりました。避難訓練も、宮城県沖地震は99パーセントの確立でやってくるから、いつ起こるかわからないよね、と常に話していたので、子どもたちと保護者にはシークレットの避難訓練を行っていました。そのうちの一回は、お昼寝中と想定した訓練も行っていました。ゼロ歳児が11名のと赤ちゃん組は保育士が4人。国の最低基準配置は、園児3人に保育士ひとりとなっていますが、ひとりで3人を避難させるのは、困難だと思いました。そこで担当制を決め、保育士4人の他に、給食担当の栄養士や調理士、支援センターの担当職員にも、持ち場の安全を確認した後、避難時の応援を頼んでいました。避難訓練時に、「足が痛い」、「くっくが脱げた」など、弱音を吐く子どもたちも、その時は真剣に走り、最後のクラスを見送った後、先頭のクラスはローソンがあるバイパスに駆け上がっていました。

園舎の戸締りをし、バイパスへ駆け上がると、これまでに見たことがない光景が広がっていました。信号は止まり、道路は渋滞、ローソンの駐車場は大型トラックが10台も入ってきて、身動きがとれず、視界も遮られていました。保護者の方々も早い時間からお迎えに来てくれて、確認しながら子どもたちをお渡ししました。ふと振り返ると、何人もの人たちが血相を変えてこちらに向かってくるのが見えました。このローソンは安全と思っていたところに誰も入らず、皆通り過ぎていきます。「あれ、火事じゃない?」うしろにいた男性が言いました。視線を見ると、水門の近くが砂煙で、茶色に変色しているのが見えます。「あっ、電信柱が倒れてる」職員がそう叫んだので、良く見ると、平行に立てられている電信柱が次々とゆっくり倒れて行くのが見えました。「津波だー!」また後ろにいた男性がそう叫んだので、とっさにこの場所も危ないと思い、「ここもダメかもしれない、ここより高いところに行こう」残った40人ほどの子どもたちを、おんぶ、避難者、手をつないで、ローソンよりまだ高い、国道トンネル方面へ向かうことを指示しました。今思えば、先人が「津波の時は高台。今いるところよりは高い場所へ」という言い伝えが残っていたのかもしれません。ローソンを抜けてトンネル方面へ向かう歩道を必死で進んでいると、ゴォー、バキバキバキと、今まで聞いたことのないような爆音が左の方から聞こえたと思う間もなく津波が。

「先生怖い!」
「キャー」

波が届いてしまうのではないかと思うほどのスピードで津波が襲ってきました。足がブルブル震えていましたが、とにかく子どもたちを安全な場所へ避難させなくては、津波の勢いから、どの辺までくるのか想像すらできずに、ただ無我夢中で国道を走りました。「頑張って!もう少し。先生のそばにいれば大丈夫だよ」と、子どもたちを励ます職員の声とともに必死でした。子どもの手をつなぎ走りながら、「山に登るしかない」と決断しました。

近くのショッピングセンターの店員さんたちも避難していたので、「助けてください。子どもたちを山へあげるので、手伝っていただいてもいいですか」。皆さん、快く手伝ってくださいました。ふと山頂を見上げると、かなり高いところまで人が登っているのがわかりました。「あそこまで行かないと津波に飲み込まれるんだ、とにかく上へ、上へ」。急な斜面を四つん這いになって、懸命に登りました。山頂での余震が断続的に起こり、時間の経過とともに気温も下がり始めました。足でふんばっていないと、ずれ落ちそうな急斜面。切り株に足をおしつけ、ふんばった状態で子どもたちを囲み、暖をとりました。怖いと寒いの連続で、子どもたちは不安だったと思います。

最初に避難したローソン、本園舎が津波に飲まれ、屋根だけになっている光景。本当に悔しくて悔しくて、涙があふれてきました。大槌の町が、日本が沈没してしまうかもしれないという光景。大惨事の様子が次々と目に入ってきたため、不安に思う反面、子どもたちは何が何でも助けなければと思っていたのは事実です。何時間山頂にいたのでしょう。子どもたちも寒く、職員たちの背中に入ったり、足にはさまったり、店員さんからいただいた毛布にくるまったりと、背中で眠ってしまう子もいました。機転をきかせて避難者に積んであった毛布も、子どもたちにとっては、カイロのように暖かだったと思います。暗くなる前に山を下りようということになり、ふもとに下りた時には雪が降ってきました。国道沿いにある会社の社長さんは、子どもたち寒いだろうから、うちの建物に入っていいよ言ってくださり、そこにはじゅうたんか敷いてあり、反射式のストーブが3台用意されていました。しかし、市街地での火災がひどく、私たちの方向にせまってきました。プロパンガスの爆発音やガソリンスタンドへ延焼し、大きな爆発音とともに黒煙が上がっていました。その勢いは想像以上でした。消防署員の誘導で、避難場所が大槌弓道場ときまったため、そこからまた更に子どもたち優先で避難させていただきました。

弓道場へ入ると、そこで初めて温かいおにぎりをいただきました。子どもたちも何も食べていなかったため、おいしそうにおにぎりをいただきました。とにかく寒かったので、職員で輪になり、そこへ子どもたちを足で挟み、毛布でくるみ、できるだけ隙間を開けないように眠ることにしました。職員はホッカイロを貼っても貼っても寒く、横になると不安がよぎるので、子どもたちを足に入れたまま座って眠るのですが、余震と寒さ、子どもたちの様子が気になり、その日はほとんど一睡もできませんでした。次の日の朝、お昼近くになって配られたおべんとう。全部で6個、子どもたちは30人。6グループに分かれて、少しずつ分けて食べさせました。ポテトチップスやポッキーもいただいたので、それも分けてすこしずつ、輪になって食べさせました。

3日目になると、近所の人たちが炊き出しで作ってくれたおにぎりがホカホカの状態で届きました。隣町から歩いて帰っていらしたお父さんやお母さん方がたどりつきました。「よかったー。生きて帰って来られた」。子どもたちを泣きながら抱きしめて対面する姿を見て、私たちもほっとしました。こうして3日目に私たちと一緒に避難した子どもたちは、全員無事に保護者のもとへお返しすることができました。「先生、どこも津波でやられて、何もないよ」そういった保護者の一言を聞いて、自分の家族のことを考え、急に不安になりました。今度は自分達の家族の安否を確かめに、それぞれ避難所を後にし、歩いて帰ることにしました。何もないと保護者が言っていた状況が、自分の目の前に飛び込んできて、茫然と立ち尽くし、言葉を失いました。

子どもたちの安否確認をするなかで、保護者のもとへお渡しした9名の子どもたちが保護者とともに行方不明になっていることを知りました。「お願い、無事でいて!」という思いとは逆に、犠牲になってしまっていたことを知りました。隣町の釜石市の避難所も探しましたが、いるはずもなく、9名のうち3名は8カ月経った今でも行方が分からない状態です。遺体の捜索や安置所もまわり、変わり果てた子どもとの再会。眠れぬ夜を過ごし、目を閉じて浮かんでくるのは、変わり果てた子どもたちやママの姿。「何で帰してしまったんだろう!自分がもう少し状況を早く確認していれば、一緒に逃げられたのに」。ずっとずっとこんな気持ちを抱えたままでいました。正直、誰とも会話をするのも嫌。保育園を見るのも嫌。普段から職員に「子どもの命を預かっているのだから」とカッコイイことを言っている自分が「なぜ助けられなかったのか」「保育士の仕事って何?」と思いつめて、自分が津波に飲み込まれてしまえばよかったのに。深い悲しみと絶望に襲われ、「もう、この仕事は辞めよう」「保育園の再会など絶対に無理だ」と思っていました。

その時、宮古へ出張していた事務員と2週間ぶりに連絡がとれ、震災後バラバラになってしまっていた職員とほぼ3週間ぶりに再会したときのあの安心感は、いまだに忘れることができません。そしてみんなで悲しみを分けあい、涙したとき、私だけが苦しい思いをしていたわけじゃなかったんだと思えた瞬間に、「よし、前を行こう」と思いました。

「先生、いつ保育園やるんですか、待ってますね」
「命を救ってくれてありがとうございました」

保護者さんからの温かい言葉にも支えられました。それから始まった園舎からの泥だし、私と事務員が事務作業に追われているなか、職員が涙と寒さに震えながら、毎日毎日重たい泥をかき出し、すぐにでも園舎を改修し、再開を急ごうと建設業者も探しましたが、一度浸水した場所での保育は、災害危険区域に指定される可能性があり、町の復興計画策定まではだめです。行政側からつきつけられた一言。プレハブは、仮設住宅建設もあり、3カ月は待たないといけない。避難していた弓道場の一角を借りて、保育が再開できるかもしれない、職員がせっせと運んだ荷物と同じ重さの責任感と重圧感を感じながら、「明日から保育ができる」と思ったとき、一般の方から感染症が発症し、そこでの保育は無理。がっかりと肩を落とし、持っていった荷物を持ちかえる職員の姿を見た時、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

5月も半ばに入り、待っていてくれる子どもたちや保護者さんになんと説明しようと思っていたところ、震災直後から園にボランティアで入ってくれていた静岡ボランティア協会の方のご紹介で、ついにプレハブが手に入ることがわかり、待っていた子どもたちのためにと、理事と協議を重ね、面接に踏み込みました。本園舎の借り入れはまるごと残ったまま。再開するにも、備品はすべて流失し、この先どうやって運営していくのか。やろうと決めた心の奥底には、何とも言えない不安がふつふつとわいてくるのです。そんなとき、「日本ユニセフ協会に相談してみたら」と、町役場から声をかけられ、ドキドキしながら電話をかけてみました。電話の向こうでは、明るく元気な声で私の話を丁寧に聞いてくれるのです。ここに至るまでの経緯が聞きたいと、本園舎までやってきました。盛岡事務所岩手フィールドオフィスの近藤智春さんでした。震災後、あまり人と話すのが嫌だったわたしにとって、初めて心の中を打ち明けることができたと言ってもいいほど、涙を流し、共感しながら、私の話を聞いてくれました。半分、園舎を建設してほしいなど、こんな話を受けてくれるはずがないと思いながら話をしたのを覚えています。それでも「すぐに本部に相談しますね」と言ってくれた智春さんの目がとっても誠実で、無理だったとしても、この人と出会えてよかったと思っていました。次の朝、再度智春さんから電話をいただき、「もう一度会っていただけますか。東京の本部から人が来るので、お話を聞かせていただければ」。智春さんの声から「やっぱりダメなんだな」と感じたまま、本部からいらっしゃった菊川さんとお会いすることになりました。「日本ユニセフ協会が大槌保育園を全面的に支援させていただくことになりました」。耳を疑いましたが、隣で智春さんがニコニコ笑っているのを見て、本当のことなんだと理解することができ、涙が次々とあふれ、言葉にならない感謝の気持ちが体中にこみあげてきました。それは、ここにいる方々をはじめ、たくさんの方々の善意が重なり、支援されているということも知りました。こうして3カ月ぶりとなる、6月1日に仮設のプレハブ園舎で保育再開を果たしました。

子どもたちは無邪気なものでした。場所がかわり、震災の影響で落ち着かない様子でしたが、日々の職員とのかかわりのなかで、時間をかけてゆっくりと信頼関係を取り戻していきました。お外が怖いと散歩に出ることが困難になってしまったり、お絵かきの時間になると「描きたくない」と言って拒否する子もいました。その時職員と話したことは、「おとなでも精神的に回復するには、時間のかかることだから、焦らずゆっくり向き合っていこう」でした。時間早めにお迎えに来てもらったり、事務所で絵本を読む日もありました。それでも「保育園楽しい」と登園してくる子どもたちの笑顔に、何度救われたのでしょう。しかし震災から半年経った9月ごろ、子どもたちの心にも変化が見られました。特に年長児は亡くなってしまったお友達がクラスに4人もいることを知りながらも、明るくふるまっていたのです。10月中旬に親子遠足を計画した時、ひとりの子が行かないと言いました。理由はありましたが、担任から相談を受け、みんなで話し合おうということになりました。

すると、その話し合いのなかで、初めて亡くなったお友達の名前をいいはじめ、「自分達が頑張ればお空から応援してくれるんだよ」というのです。私と職員たちは、「今子どもたちと正面から向き合わなくては」と思い、じっくり話し合いをすることにしました。「なんで津波が来たんだろう」と女の子が話しだします。「そうだね、何で今だったんだろうね」と言いました。「園長先生がさ、Tちゃんたちにおうちに帰らないでって言えばよかったじゃん!」心がきゅっとなり、次々に涙があふれてきました。初めてぶつけてきた本心。

「きっと大切なものを取りに行ったんだと思う。Hちゃんもおうちに大切なものあった?」
「うん、あったよ」
「それは何?」
「それはね、七五三の時にきれいな着物を着て撮った写真・・・でも流されちゃった」
「そっか。3歳の時は一回だけだもんね。でも流されても着れるよ。きっとTちゃんも大切なもの取りにいったんだね」
「Tちゃんに会いたい!」
と、言って私に抱きつき、大声で泣いたのです。

「先生も会いたい。これからこうやって我慢しないで、悲しいときや、会いたくなった時には、話そうね」と言うと、うんと頷き、これまでお互いかぶっていたようなベールがはがれていくような気分になりました。

これからの道のりは長く険しいものです。でもここまでやってこれたのも、日本ユニセフ協会の方々のご支援があったからです。数え切れないほど、多くの方々からのお手紙や支援物資をいただいたり、ボランティアとして園舎の泥だしや清掃作業を繰り返し行ってもいただきました。仮設園舎が完成すると、子どもたちも少しずつ保育園に戻ってきてくれたのですが、保育士不足で、これもユニセフ協会の仲介で、東京都社会福祉協議会から保育士の派遣ボランティアにも来ていただきました。現在は子どもたちの心の安定も考慮し、青年海外協力協会さんより、長期派遣を行っていただいています。失ったものは沢山ありますが、たくさんの出会いがあり、あふれるほどの優しさをいただき、「絆」という財産を得ることができました。これからの目指すことは、本園舎に戻ることです。今は危険区域に指定されるか否かの判断待ちですが、職員やたくさんのボランティアさんが、泥だらけだった状態から、何日もかけてきれいにしてくれた園舎。移転して2年しか経っていませんが、子どもたちとの思い出がたくさんつまった園舎に一日でも早く帰りたいと思っています。

「最後まで孫と娘に愛をたくさんくださってありがとうございました」。
亡くなった園児のおばあちゃんが私にかけてくださった言葉です。私たち保育士という職業は、すぐに答えが出る仕事ではありません。正解なのか、不正解なのかわかりませんが、この世から旅立ってしまった6人と、まだ見つからない3名の大切な子どもたちの分まで、今、目の前にいる子どもたちに沢山の愛情を注ぎ、成長を見守り、力強く、たくましく、おとなになって、この大槌に生まれ育ってよかったと、思ってもらえるように、子どもたちのために汗を流すことを決めました。

また、ユニセフさんとの関わりのなかで、本当の意味で子どもたちとかかわることの意味を再認識し、職員や保護者とともに支えあい、助け合いながら復興に向かって一歩一歩前進することが何よりの供養だと心に誓っています。そして、皆さんに一日も早く良い報告ができるように頑張りたいと思います。
最後までありがとうございました。

写真は全て大槌保育園提供

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