財団法人日本ユニセフ協会




アグネス・チャン日本ユニセフ協会大使
イラク緊急報告会レポート

■日時: 2003年6月30日(月)15:30-17:00
■会場: ユニセフハウス 1階 ホール
 

講演1  2003年6月21日から28日までの日程でイラク南部を視察したアグネス・チャン日本ユニセフ協会大使が、30日、ユニセフハウスで帰国報告会を開催しました。
 日本ユニセフ協会が呼びかけたイラク緊急募金には、多くの協力が寄せられ、これまでに、現地に8億3000万円の資金を送ることができました。しかし、いまだに治安が回復せず、混乱が続くイラク国内では、さらなる支援が必要とされています。
 実際に、現地の子どもたちは、今、どのような状況にあるのか。何を望んでいるのか。会場には、立ち見が出るほどたくさんの方々にお集まりいただき、アグネス大使が現地で出会った多くの子どもたちや親たちの切実な声に耳を傾けました。

アグネス大使 視察日程

6月21日出発
ドバイ経由でクウェート入りした後、クウェートで安全上のブリーフィングとトレーニングを受けて、陸路でイラクに入る。南部都市バスラを中心に、水道施設、病院、教育施設などを視察。また、一般の家庭を訪れて、子どもたちやその家族と交流した
6月28日帰国
 
■アグネス大使からの報告

〜バスラに入るまでの道のり〜
講演2  昨年から、イラクで戦争が起こるのではと騒がれ、ユニセフも心配していました。イラクは長い経済制裁で、すでにとても苦しんでいる国、子どもたちの状況が悪い国でした。もう一度戦争が起きたらどうなってしまうだろうと、みんな心配していたのです。ユニセフは、戦前から、物資やワクチンを運びました。戦争から子どもたちを少しでも守るためです。
 とうとう戦争がはじまり5月に終わったわけですが、1日でも早く子どもたちがどんな状況になっているかを見てきたかった。イラクの緊急募金を呼びかけたので、その報告もかねて、また、もっと協力を呼びかける意味でも、早くみなさんにお話したかったのです。

 6月の日程でイラクのユニセフ事務所に提案しましたが、状況が不安定なのでもっと遅い方がいいと言われました。イラクは、国連の危険度が、まだ4です。でも、熱意が通じて、NHK、他のジャーナリストの方達も一緒に行くことができました。

 イラクまでの道のりは長かったです。ようやくクウェートについて、いろいろなブリーフィングを受けました。安全についてもさまざまなことを言われました。「指示があったら、すぐに車に乗って逃げる」「勝手に車を降りてはいけない」「市場には行かない」「門限は夜8時」…。だんだん、大丈夫かな、と不安になったりしました。  クウェートの国内にはいろいろな検問所がありました。でも、国境を越えた途端、だれもいないのです。英軍も警察も、制服を着ているような、政府の担当者がイラク側にはだれもいない。無政府状態なんだな、だれも責任とってくれないんだな、と実感しました。特に欧米人が乗っている車は石を投げられたり、攻撃されたりするそうです。ここを通るときは、「ドアはロックして」「止まらないで走り抜けて」などと言われました。

〜かつての美しい町バスラの今〜
 世界史で学ぶチグリス川とユーフラテス川が一緒になるあたりにイラク南部の都市バスラがあります。この地域は、30年間の戦争でもっとも苦しみました。バスラはシーア派の多い地域で、フセインにこころよく思われていなかったので、イラン・イラク戦争のときにも、兵士としてよく駆り出されました。クウェートへ続くハイウェイが通っているのですが、湾岸戦争のとき、クウェートに攻め込むときもこのハイウェイが使われました。

 バスラはいつも最初の戦場となるのです。英軍が最初に制圧したのもバスラでした。空爆もたくさん受けました。
 港に近い町で、そこに物資が集まってくるので、経済制裁の影響を一番受けたのもここでした。南には反乱軍が多いと思われていて、政府からの支援も少なかったのです。  かつては、とても美しい町として有名でしたが、空爆、経済制裁で、街は無残でした。

〜水・水・水…〜
穴のあいた水道管  今回の視察の大きなテーマのひとつが「水」でした。イラクに入る前、クウェートの国境近くのアブダリ給水場というところで、ユニセフの給水車を見ました。ユニセフは、1日に30〜40台の給水車を送り出しています。
 今、イラクには水がありません。水が悪くて子どもが下痢をしています。イラクでは下痢で子どもが死にます。
 空爆、そして、略奪。政府の施設は、すべてのものが奪い去られ、機能しなくなっています。水道も出なくなってしまいました。
 本当に暑いんです。50度を超える気温。想像を絶します。じりじりという音が聞こえます。自分が焼き魚になったよう。サウナよりオーブンに入れられた感じです。顔が痛いんです。こんな中で飲み水がなかったら死にます。そんなところなんです。  水道管がこわれて、もれているところがたくさんありました。水道管に穴をあけて、水を取っていってしまう。子どもたちもそんな水をくみにいっています。下水道からの汚水もまざりあっています。
 「生水飲ませて、子どもは下痢しないの?」とあるお母さんに聞きました。そしたら、「してる、してる。いつもしてるよ!」と答えがかえってきました。水をわかすことが必要なことはわかっています。でも、わかすためには燃料が必要です。それが足りないから、生で飲ませてしまう。バスラの子どもは1年に14回も下痢にかかるそうです。日本の子どもは年3回。気温が60度にもなると、下痢の発症はピークを迎えます。
水道局 ユニセフの給水車   ユニセフは(機能していない)水道局の代わりに、水道を直しています。水道局は、パイプも窓も略奪され、、釘の1本まではずされて、空っぽになっていました。ようやく、ユニセフの支援によって、ポンプが戻ってきました。それでも、まだ6割しか機能していません。
 給水車をたくさん見ました。ユニセフも塩素などの浄水剤や給水タンク、給水車をたくさん送っています。下痢による脱水症状を防ぐORS(経口補水塩)も一緒に届けられます。 どんな物資をどうやって調達し、中に運び入れるか、という仕事を担当していたのは、日本人のユニセフスタッフだったんですよ。竹友さんといいます。でもユニセフだけではとても大変。もっと他のものが機能していかないと。
 給水車のまわりには、人びとが水をもらいにきます。給水車で水を配っていると、やっぱり、奪い合いなどのけんかも起こってしまう。でも今は、他の方法がないので、しばらくは給水車と給水タンクが必要です。水道が戻るまでしばらく続くでしょう。

〜空爆犠牲者の叫び〜
空爆にあった民家  空爆で家族が犠牲になった、アデル・アリ・ムサさんの家を訪ねました。ムサさんは、朝5時にお祈りのために、外で体を洗っていたときに、飛行機の音して、次の瞬間、爆弾が家を直撃しました。ちょうど弟が家から出てこようとしていたところだったそうです。

 「死んだんですか?」とたずねたら、「死んだんじゃない、殺されたんだ!」と涙をためて言われました。
 お母さんに「息子さんは何人ですか?」とたずねたら、「息子は3人です。3人だったのです」と、わめくような声で言われました。私にも16歳の子がいます。育てるのに16年。その命が奪われる。耐えられないことです。お母さんは、あの子は小さいころはこうだったのよ、と長い間、いろいろ話してくれました。

 アクラム・アビッド・ハッサン医師の家族は15人家族でしたが、そのうちの10人が空爆で死にました。
 隣の家にミサイルが落ちたのです。なぜ落ちたのかわかりません。その家は全壊。この穴を見てください。深い穴です。彼の家は半壊しました。二重の壁があり、その壁の下敷きになって、奥さんも子どもも、きょうだいもその子どもも亡くなりました。おじいちゃんが出てきて、一生懸命にがんばって働いて、家族を守るのが最大の目的だったのに、つらいつらい、としきりに言ってました。

 イラク戦争でどれだけ死んだのか、だれもわからないといいます。AP通信は、病院で三百数十人が亡くなったと伝えましたが、病院以外で何人が亡くなったのかわかりません。

 爆弾で、指が切断され、破片がおなかに入ってしまった子どもにも会いました。そのときのことを聞くと、身をよじるようにして、苦しそうに丸まってしまいます。絶対に空爆の話はしません。お母さんは、「空爆以来、この子は普通の子じゃなくなってしまいました」と嘆きました。見える被害もありますが、トラウマを抱えてしまった子どもたちも多いのだと実感しました。

 墓地にも行きました。見渡す限り新しいお墓で、いろんな人が毎日やってきて、泣いています。この人は3日後に結婚する予定だった人を亡くしたそうです。婚約していたので、これから誰とも結婚できないといいます。「相手を許せますか?」と聞いたら、「許せるわけがない。この苦しみから一生抜けられないのだ」と言われました。

〜診療所の再開、病院でのむごい現実…〜
第14タームズ診療所  第14タームズ診療所を訪れました。戦前に運び込まれていたワクチンは、停電のためにすべてだめになってしまいました。そして、戦後もこうした診療所は略奪にあいました。

 幸い、ユニセフが冷蔵庫を入れて、この診療所では毎日80〜100人くらいが予防接種を受けられるようになりました。戦争がはじまってから、新たに20万人以上の赤ちゃんが生まれています。その子どもたちへの予防接種を早くしなければならないので、大忙しです。

 イブン・ガズワン母子病院では、いろいろな子どもたちに会いました。
 イラクの子どもたちの4人に一人は栄養不良です。配給制度が再開されましたが、お米、小麦、お砂糖、バター、ときどき豆、それだけです。肉や野菜は配ってもらえないので、栄養が偏っています。仕事もないから、他に食料を買えません。生まれてから肉を食べたことのない子どももたくさんいるといわれています。
 そのため、子どもたちの体が小さいんです。長い間の栄養不良は知能にも悪影響を与えます。先生が言うには、ユニセフはこれまでF100というタイプの栄養強化ミルクを配っていて、今回もかなり運び込まれていますが、今、必要なのは、もっと薄い(より消耗が激しい子ども用の)F75というタイプのものです。これまで、このミルクが必要になることはなかったそうです。アフリカ(の状況が厳しい地域)よりも悪い状況になっている、ということです。

小児病棟  そして、ここ10年、ガンにかかる子どもが増えたそうです。この50年でイラクのがん患者は3倍に増えているそうです。
 この子は、もうおなかに水がたまって、「いたーい、いたーい」と言いつづけいました。お母さんは、「この子が助からないのなら、自分で殺してやる」とまで言っていました。本当につらい。子どもたちが運ばれてきても、死ぬのを待つばかりなのです。医薬品も医療機材もありません。
 近くには、破壊された戦車がたくさんありました。近くに行ってはいけないと言われました。劣化ウラン弾のことはまだ、国連も英米軍も何も言っていませんが、英米軍の人も、そうした戦車には決して近づきません。それなのに、子どもたちはその戦車で遊んでいるんです。

 60%の赤ちゃんが未熟児です。保育器がありません。酸素が足りません。経済制裁のために、病院の機材はすべて、1980年代以前のものです。
 その日、生まれた未熟児を見せられました。「先進国では(出生体重が)600グラムあれば助かるでしょう。この子は800グラムありますが、死にます。どうか、助けてください」と訴えられました。

〜学校での子どもたちの笑顔〜
女子小学校  バスラ市内の女子小学校と男子小学校に行くことができ、ここで、子どもたちの笑顔に救われました。戦争がはじまって家から出られず、みんな学校にこられませんでした。  女子小学校では学年末の試験中でした。試験は、口頭だったんです。紙がないので、一人一人、先生が口頭で質問をして、子どもが答えます。書かなければならないものは黒板に書いて、というふうに。

 男子小学校の子どもたちは、ほんと、やんちゃでした。だから、こっちの先生達は迫力あって、厳しいんですよ。でも、ほほえましかったです。子どもたちが学校に戻れてよかったと思いました。
男子小学校  学校には男の子の方が戻ってきています。女の子は、治安の問題があるので、まだだと言います。
 男子小学校では、2階が壊れてしまっていて、使えません。子どもたち、すごくたくさんいるのに、校舎も教室も足りません。だから午前と午後でわけて使っています。  とても暑いのに、扇風機も飲み水も、トイレもありません。1800人もの子どもたちが通ってくるのに、トイレがないのです。特に女の子は生理がはじまるとトイレがない学校にはこられません。机がほしい、文房具、教科書ほしいとまで言わないから、とにかくトイレを、という声が大きかったです。

 ユニセフは、9月から“バック・トゥ・スクール(学校に戻ろう)キャンペーンをやろうと準備中です。その中で、500万のスクールバッグ(学用品)を配ろうとしています。

 イラクでは、小・中・高校を卒業するときには、全国で一斉試験をします。今年はそれができないのではないか、と心配されていましたが、ユニセフは1500万枚の試験用紙を提供して、ボールペンなどを届けて、試験ができるようにしました。これには、みんな感謝していましたね。

 バスラ地域でも、全壊してしまった学校が8つありました。そういう学校には子どもたちが帰れません。学校修復、再建プログラムも始まりつつありますが、もっと安定した状況で、子どもたちが学校に戻れるといいな、と思います。

〜すぐそこにある不発弾や地雷〜
不発弾  不発弾がすごくたくさん残っています。手榴弾、砲弾、爆弾…。空爆や地上戦のために、こうしたものが、今でもたくさん散らばっています。
 歩いていても、舗装された道から一歩もはずれるなと言われました。「前の人についていけ、それなら安全だから」と言われ、「じゃあ、一番前の人はどうするの?」と聞いたら、「運次第だね」と言われてしまうくらい。
 でも、私たちが見ている間にも、こうしたところに、薪を探しにくる子どもやおばあちゃんがいるのです。乾いた草や糞を拾って歩いています。とても危なく見えました。ユニセフは、ポスターなどをつくって、不発弾や地雷の危険性を広めているのですけれども。

 それから、人びとは、放置されている車の部品などを取って売ったりしています。不発弾の外側の金属をとって売ろうとする子どももいます。そうして被害にあってしまう。

 ちょうど、政府軍と英軍にはさまれた地域にも行きましたが、ここはひどかった…。民家も壊れていて、中もめちゃめちゃ。壁には弾痕がたくさん。地上戦が長かったのでこわかった、と話してくれました。子どもたちもたくさんけがをしています。パンツをおろしてみせてくれる子もいました。

〜人びとの心は…? 米英軍との確執〜
 フセインが消えたのはいいですが、みんな警戒心は弱めていないと思いました。今度来た人はいい人なのか、悪い人なのか、判断に迷っているようでした。軍服など、制服にはトラウマがあるように思います。行っている間にも英軍の兵士が6人殺される事件が起こりました。たくさんの住民が怪我をしました。本当に平和がくるのか、人びとは怯えています。本当に信じていいのかわからないんだと思います。
 ホテルにいても、夜になると銃声が聞こえてきます。略奪から自分たちを守るために発砲しているとのことでした。イラクの家庭の90%は銃で武装しています。
 英軍は街に出るときはヘルメットははずしていました。街の人に溶け込もうと努力しているようでした。米軍はまだヘルメットもかぶって、銃も構えていて、威圧感がありましたね。

〜豆売りの少女ジハン〜
 ホテルの周りでは子どもたちが働いています。靴磨きの少年もいっぱいいました。私は、スウェードのような靴を履いていて、磨かれたらだめになるなってわかってたんですけど、毎日2回、ちゃんと磨いてもらいました。最後の日なんて、サービスって言われて、べっちょりクリームつけられちゃって…。1回で、250ディナール(25円くらい)。その子は、4年生から学校に行っていないということでした。
 (街で寝泊りする)ストリートチルドレンはあまり見かけませんでした。イラクは大家族なんです。親が死んでも、おじさんやおじいさん、親戚が面倒を見ます。

 ホテルの前で、毎日、ジハンという豆売りの少女に会いました。家に行ってもいいかとお願いしたら、連れていってくれました。お父さんは、イラン・イラク戦争にも湾岸戦争にも駆り出されて、逃げて、つかまって、弾圧されて、という日々だったそうです。昔はトラック運転手をしていたそうですが、今は月に4回くらいしか仕事がありません。子どもが7人いるのですが、働ける子はみんな働いています。
 お昼ごはんは、ナスとじゃがいものあげもの、スープをお米にかけたものでした。ごはんですよ〜、と呼ぶと、驚いたことに他の家族までやってくるんです。みんなに配ります。私もいただきました。「お肉は?」と聞いたら、お肉はないそうです。
 子どもたちは生水を飲んでいたので、大丈夫かと聞いたら、「大丈夫じゃないけれど、わかすお金はない。、赤ちゃんはいつも下痢をしていて、診療所で薬をもらうけれど、なおったとたんまた下痢をする」と言っていました。
 お母さんは、ないなりにやりくりしていくしかない、と言います。「うちの子どもは、新しい服なんて着たことがない。1万ディナール(およそ1000円)もするんだから」ヨルダンから中古の服が入ってくるそうです。それだと1枚250ディナールで買えます。ジハランとは毎日会いましたが、毎日、同じ服でした。多分、その服で寝ていると思います。

 ジハンに「夢はなに?」とたずねたら、9歳の女の子が、「安定した生活です」と言うんですよ。思いがけない言葉でしょ。胸がきゅんとなりました。
 「イラクの子どもを日本の子どもは心配しているのよ」と言ったら、「日本の子どもに言って。イラクの子どもも日本の子どもたちのこと愛してますって」と言うんです。  そんな子どもたち、そして、そんな子どもを守ろうとしている親達がいっぱいいます。

〜イラクの人びとの素顔〜
 イラクの人びとは、本当に日本のこと好きでした。理由はわかりませんでしたけれど。「ヤバニ」が日本人という意味です。「ヤバニ?」と聞かれてうなずくと、「ヤバ、オッケー」と言われるんです。「わたしの子どもに美人がいるよ、日本人に似てるの」と言うのです。このイメージは大切にしたいと思いました。
 たくさんの親切を受けました。子どもが、梨を売りに来て「お金がないから」って言うと、「うーん、じゃ、しょうがない、1個あげよう」って言うんです。みんな、何にもないのに、私にたくさんくれようとします。
 イラクの女性は強いと思いました。外ではあまり見かけないのですが、家では強いです。母親がしゃべっているとだれも何も言いません。けんかしはじめるのも母親。女性は意外と強い立場にあるのかもしれません。女性が誘惑的なんですって。だから、女性はみなベールなどで隠しています。私も、年取った赤ずきんちゃんみたいで似合わないのですが、ベールをかぶっていました。でも、これ、合理的だとわかったんです。ベールは、砂や暑い陽射をよけてくれます。日焼けしなくてすみます。砂漠に住む人の知恵かな、と思いました。中にはそれをいやがる女性もいて、自由に振舞えないのが残念ですが、私も、黒い長袖、長いスカートで過ごしました。あなたたちの宗教を尊重します、そういう態度でいかないと、受け入れてもらえないと思ったのです。人を大事にすれば、大事にしてくれます。攻撃するんじゃないかと思えば、攻撃してきます。笑顔を忘れずに、相手を大事にする、イラクの人からいろんなことを学びました。この国を、人びとを、思いがけないくらい、大好きになりました。

〜私たちにできること〜
 どうして、そんなに戦争を繰り返すんだろう。資源がたくさんある国だからでしょうか? 今回の戦争、子どもをなくした親が、子どもをなくしたけれど、戦争をやってよかったんだと言ってもらえるようになるでしょうか。これからが大事です。私達は、本気を出さなければなりません。
 水もない、食べ物もない、病院も機能もしていない、治安がいつ悪くなるかわからない…。アメリカはまた大規模な作戦をはじめるそうですね。「がらがらへび作戦」ですって。名前つけなくてもいいのに…。名前をつけるとゲームみたいです。もう戦争はいやです。多分イラクの人もそう思っています。
 ぜひ、一人でも多くの人に、この現状を話して下さい。そして、頼んでみてください。説明してください。こうしたことに対しての自分の気持ちも探ってみてください。意見を強くもって、訴えてください。日本にもできることはたくさんあります。学校に行きたい子が待っています。
どうもありがとうございました

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■会場との質疑応答

Q: 会場  子どもたちのガンの話がありました。劣化ウラン弾の影響があると思っておりますが、どのようなガンが増えているのでしょうか?
A:  慢性白血病はあまり起きないといわれてきたのが、だんだん増えてきて、奇形、脳腫瘍も増えています。オーストリアのNGOから機材、医薬品が多少入っているそうです。ユニセフはどうしてもライフラインが中心なので、その部分で応援しているのは、麻酔や鎮痛剤くらいです。高価な薬などは送れていません。

Q:  イラクの子どもたちは、フセイン政権が崩壊したことをどのように感じていますか?
A:  フセイン政権については、子どもたちはあまり意見を言いません。大人も恐怖心があるのであまり言いません。フセインがいたせいでこの戦争がおこったという人もいます。 フセインの時代は、食料も電気もありました。戦後で、ライフラインが戻っていないので、どっちがよかったのか、まだ意見が定まっていないようです。治安もライフラインも戻って、生活が良くなったという実感がまだないのです。フセインは悪い、でも今も悪いよ、という感じです。

Q:  戦争直後に動物園の動物がやせ細っているという写真を見ました。ペットなんかは、どういう状況でしたか?
A:  動物園は行きませんでした。見た動物は、野良犬。現地の人は最近、野良犬が減ったと言いました。食べたのか死んだのか、生き残るのに人間が精一杯。羊はよく見ましたね。

Q:  妊婦全体の60%が貧血で苦しんでいると聞きました。家庭の中で、女性の立場はどうなのでしょうか?自分自身が病院に行くことや、子どもを病院に連れて行くことも母親が決められるような社会なのでしょうか
A:  そういう社会だと思います。生活が苦しいので、妊娠していても、栄養が摂れない。肉も食べられない。油だってバターしかない。そういう状況だから、貧血なのです。お母さんに栄養がないと、子どもは弱く生まれてしまします。ザハランも鶏が好きと言いました。でも、ずっと食べていません。食料の問題が深刻なんです。

Q:  学校のハードの面がひどい、ということもあるでしょうが、教育の中身、こういう状況で、何を子どもたちが学ぶのか、その中身を教えてください。
A:  今、ユニセフが依頼されて40名の専門家を集めて、教科書を書き直しています。印刷をだれがするかはまだ決まっていませんが、作業が進行中です。公平に進められて。フセインのときはちょっと偏った内容があったようですから。
 子どもたちはとても賢いです。学校の先生たち、病院の人たち、いろいろなことを訴えてくるとき、とても理にかなっていることを言ってくる。とてもどんぴしゃに言ってくる。賢いなと思わされます。子どもたちは、医者になりたい、先生になりたい、と言います。経済制裁が終われば、いろいろな職種も生まれてくるので、もっといろいろな夢が持てるようになると思います。

Q:  水の問題が重要だとおっしゃっていましたが、戦争中に、米軍が、自分達の水を確保するために浄水タンクをつくって、自分達の水を確保していた、と聞きました。短時間で、やろうと思えば、そういういことができるのに、どうして、今できないのでしょう。
A:  イラク地域にいる30万人を超えるアメリカ軍は自給自足しています。米軍のための物資トラックが、長い列をつくって運ばれていきます。イラクのものは何も使っていません。毎日毎日、莫大なお金を使って、維持しています。
なんて答えていいのかわかりませんが、それが現実です。すごい、力です。一般の人たちと比べることはできません。
 給水場が壊れているので、すぐに直してほしい。でも1億円とかのお金がかかります。一方、ミサイル1発1億円です。どこにかけるのか…。私達が気持ちを強くもたないといけません。やっぱり、給水所なんです。